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2017年7月20日 JEPA 講演
デジタル時代の明治 20 年問題
誠心堂書店 橋口 侯之介
はしぐち こ う の す け
明治に入って出版界は大きく変わった。和装本から洋装本へ、木版印刷から活版印刷へ、など書籍の外形上の変化も大きかっ
たが、読者の意識変化、検閲などの出版への国家の介入、古本と新本の分離、流通機構の新設など多面的な進展も重なった。
この流れに対して、江戸時代からの本屋は翻弄され、明治20年頃までに大半が廃業してしまう。出版を担う人間のメンタリティそ
のものが根底で崩れてしまったのだ。これを明治20年問題ととらえ、わたしは現代のデジタル化の流れと重ねて見ている。
近世出版の特徴
★近世は活字版印刷から始まったが…
中世までは仏典や漢籍などが細々と木版で印刷されていた程度だったが、近
世の始まりは活字版の印刷技術で始まった。新たに仮名交じり文の古典の印
刷が加わり、書き下ろし小説の仮名草子が生まれるなど、出版の機運が一気
に高まった。ところがこの技術の時代はわずかに30年くらいしか続かず、元
の木版印刷に戻ってしまう。それは技術の退化でなく、日本語の印刷に活字
が不向きだったからだ。
日本語の組版にはルビ、訓点、割注・頭注、挿絵など本文以外の文字や記号
が複雑に混在する。古活字版までは本文だけが印刷され、これらの付属物は
手書きの「書き入れ」で対応していた。木版印刷はこれらを始めから印刷す
ることができる。その結果、漢文は訓点があれば「翻訳」されたも同然とな
り、挿絵入りで古典文学の敷居は低くなった。それが書籍の購買層を
広げることになり、商業出版への道を開いた。1630年代のことである。
京都で出版する本屋が林立する。
★板木でコンプライアンス 大きかった本屋仲間の意義
江戸期の出版は板木を財産=株とすることで発展した。17世紀末からそれを守るために同業者組合である
本屋仲間が内部規制を強め、出版権を守った(著作権ではない)。板木を売買する市場が開かれ、出版の
流動性が広がる。本屋仲間は行司と呼ばれる役員を互選して町奉行とも良好な関係を築いた。
★本屋の業務 新本から古本まで
江戸時代の本屋は、本に関することなら関連する商品の販売、委託など何でもこなしていた。新刊書を発
行する出版業だけで成り立っていたわけでなく、古本屋、新刊書店、取次問屋、輸入唐本販売、貸本等を
兼業し、それらの総合的な収益で成り立っていたのである。江戸時代、他の業種では基本的に生産者、仲
卸、小売と分かれるのが普通だが、書籍業は分化されなかった。このことも明治20年問題にかかわる。
★出版点数の増加
寺子屋が全国くまなく普及し、庶民の読解力(リテラシー)も高くな
った。そこに多数の出版物が供給され、出版点数も部数も増加
していく。書物は一部の教養人だけを対象とするものではなく
なっていた。江戸時代後期、仕組みや出版技術(たとえば板木彫りの
技術向上など)は最高度に達した。
江戸時代は本屋にとっても居心地のよい時期だった。多くの店
では代々世襲するのが普通だった。二百年以上続く店はざらに
あった。独自発展だったがガラパゴス化といえなくもない。
女性の読者向けの人情本・為永春水作『春色梅暦』
明治に入って何が起きたのか
明治元年にいきなり本の世界が変わったわけではないが、明治初期の10年、20年までの間に変化をとげて
いく過程で、これまで仲間によって保たれていた本屋の活動が崩壊していくことになる。
↑仮名の連綿活字を使った『源氏小鏡』
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★価値観の変動
幕府瓦解とともに価値観が変動し、本の需給関係が乱れる。本の内容面で従来型の思考では追い付いてい
けない面が出てきた。かわりの出版物は、『明治初期三都新刻書目』(『戊辰以来新刻書目便覧』明治7年)を
見ると一目瞭然である。オランダ語から英語の学習書・翻訳書が増大し、化学・医学などの理数書、海外
の地理や世界の動向などの本が一気に増えていく。この変化に江戸時代からの本屋も始めはついていった。
★装訂上の変化
和装から洋装へ、木版印刷から活版印刷へ、和紙から洋紙へ、墨からインキへと生産工程に変化もおき、
出版物の形態にも大きな変化があらわれた。中が活版で外は和装本という過渡的な形はまだしばらく続く
が、木版で和装という本は明治十年代に激減する。
★職人の意識
欧米の技術が入って来て、書物の大量生産が進んだ。これには従来の職人では対応できず、新しい工員が
必要となった。個人による居職でなく、多数の職工を雇う工場が立ち上がり、印刷会社、製本会社になっ
ていく。この旧職人と新工員は仲が悪かったという。
★本屋仲間制度の消滅
政府は着々と言論統制強化を進めていた。明治2年5月13日の行政官達で出版は昌平・開成学校より検印を
受けるべしという出版の官許制度が始まる。明治4年には文部省へこの管理を移した。それでも書林仲間
(旧本屋仲間)の行司を通して官許の申請をするので、従来の仲間は存続していた。
明治5年東京で書林組合ができ、地本錦絵問屋も参加して146名が組合員として認められた。そこには、ま
だほとんど江戸時代からの本屋が残っていたが、明治8年9月、出版条例が制定され直接内務省が検閲をす
るので仲間行司の必要がなくなり、ここで旧来の書林仲間の制度は消滅する。
明治18年、同業者組織が規定されたのにともない出版業者は明治20年に東京書籍出版営業者組合を結成し
東京府から認可された。そこにはもう江戸時代からの本屋はほとんど入っていない。
★新本と古本の分離
明治9年、八品商取締規則ができ、古着・質屋などの8業種は地方庁の鑑札を受け、身元確認のうえ売買の
帳簿を製すべしということになった。明治17年、古物商取締条例が発布される。明治28年になると、条例から
古物商取締法となった。これは現在古物営業法の先駆である。これで新・古本が制度的に分割されてしまう。
ただちにすべての書店が分化するわけではいが、しだいにどちらかに専業化する。たとえば神田神保町に
できた有斐閣や岩波書店のように当初は、古本を商い、新本小売をし、出版もするという幅広い業務形態
を有していたが、大正期に入ると出版専業になっていく。書店も片手間に新本も古本も扱うという商法は
難しくなり、どちらかにに専業化していく。
★新刊販売網も変化
明治期の出版は、学校の教科書や新聞・雑誌のように全国に同じ出版物を届ける新たな流通網が確立する。
そのために出版社が直接全国に売るのでなく、卸問屋「取次」が明治20年前後に相次いで創業される。
同一の商品を全国展開して売る体制が整うが、それは東京で発行したものの勝利だった。これで出版、新
本販売、取次、古本屋はそれぞれ別に存続するようになった。江戸的な制度は霧消した。
★図書館の創立/貸本屋の衰退、言文一致
明治初期までは江戸文芸を読むのはまだ貸本屋が多かったが、書籍流通の発達などから個人所有へと移っ
ていった。図書館の増加とともに貸本屋が衰退するのもこの明治二十年は指標になる。
言語や文学でも変化していた。明治17年、三遊亭円朝の速記本「怪談牡丹灯籠」が東京稗史出版社から刊
行される。近代写実小説の始まりとされる坪内逍遙の『一読三歎当世書生気質』も明治18年から刊行。
明治前半期の変化は、出版物に対する価値観の変化、技術の進展、制度の変化、資本や流通の発達など複雑な様相を呈していた。
それらが一気に起きたことで、そこに携わっていた人の精神面にも大きな打撃を与えた。新たな教育を受けた世代に江戸的な本
屋を受け継ぐ気持ちがもうなかった。結局、廃業していくのである。この明治期の変化は、21世紀の書籍がデジタル化されてい
こうとすることと関係する。千年の和本の歴史に対して近代以降の書籍はたかだか130年の歴史しかない。それがもう終わりを始
めようとしている。たんなるデバイスの変化ではなく、そこに携わる人のメンタリティーの問題だというのがわたしの意見であ
る。明治初期、江戸期からの本屋は明治20年前後に力尽きて舞台から退出する。それ同じ事が今おこらないことを祈る。

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