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====== <テーマ>    ======
レヴィナスの「師」「他者」「顔」
        ・    ・           児玉雄樹

====== <目的>    ======
 2010 年末に私の実家がある鳥取に帰省した際、私が高校時代に所属していた剣道部の顧問だった私の師と話す機会があり、内田樹氏の著作等

を紹介して頂いた。内田樹氏のレヴィナス論を通して「師」とはなにか、「他者」とはなにかということを考えてみたい。また、私の師が「教

育活動の核」としているレヴィナスの「顔」という概念を探求してみたい。別紙1参照
                                  別紙1
                                  別紙

====== <基本情報> ======
エマニュエル・レヴィナス

1906 年にリトアニアのカウナスにおいて書籍商を父とし、長男として生まれたユダヤ人哲学者。(サルトル、アーレント、ベケットと誕生が同

年)フッサールとハイデガーに現象学を学び、フランスに帰化。第二次世界大戦に志願するが、ドイツの捕虜収容所に囚われて4年を過ごし、

帰還後、ユダヤ人を襲った災厄を知る。ソルボンヌ大学等で教鞭をとる。
                                『超越・外傷・神曲』
                                         『時間と他者』
                                               『実存の発見』
                                                     『全体性と無限』な

ど著書多数。95 年没。

====== 「師」という概念について ======
●タルムードのテクストは「完全記号」とレヴィナスはいう。(p.7)(タルムードとはユダヤ教の教典古来の口伝律法を文書化したもの。)

●師に仕えるというのは「完全なる無謬の師」や「すべての意味がそこに見出せるテクスト」という物語に有り金を賭けること(p.8)

●EX.レヴィナスにとってのモルテガイ・シュシャーニ師に対して抱く「知の大洋」別紙2参照
                                       別紙2
                                       別紙 参照(p.14)

 ラビ・エルゼルは言った。「もしすべての海がインクで、すべての湖沼に葦が生え、天と地が羊皮紙で、すべての人が文字を書く術を知って

いるとしても、彼らは私が師から学んだ律法のすべてを書き尽くすことはできないだろう。一方、律法はそんなことをしても大洋に筆の先をひ

たして吸い上げたほどもその水量を失いはしないだろう」【DL p.48-9】
                         。

●「知の大洋」という比喩は「量」ではなく「関係」の比喩(p.17)

●師とは私たちが成長の過程で最初に出会う「他者」のことである。(p.18)

●師弟関係-何らかの定量可能な学知や技術を伝承する関係ではなく、「私の理解も共感も絶した知的境位がある」という「物語」を受け入れ

る、という決断のこと。言い換えれば、師事するとは、「他者がいる」という事実それ自体を学習する経験(p.18)

EX.私の高校時代における体験(剣道部の稽古終了後の師の言葉等)

●「知」とは情報や知識の「量」ではない。「私が知らないことを知っている人」との対話に入る能力のこと(p.18)

●私たちが学校へ行くのは、「適切な仕方で質問をすると、自分ひとりでは達しえない答えのありかを知ることができる」ということ、不能の

様態を適切に言語化する仕方を学ぶため。(p.19)

●「師」とは「想像的に措定された俯瞰的な視座」「弟子をマップする視座のこと」
                      、               (p.21)

●「弟子になる」「師に仕える」とは、まず「師を畏怖する」ことを学習することから始まる。そして、それこそが師から弟子が習得する最初
        、

の、そしておそらくはもっとも貴重なスキル。それがなければ「外部から到来するもの」に耳を傾けることはできず、「おのれの理解も共感も

絶したもの(=他者)」となお対話を試みることが出来ない。(p.22)

○タルムードのテクストが完全記号であるのと同じ仕方で、
                          「他者としての師」は「完全な師」である。(p.57)

○弟子が師について学ぶ仕方と、読み手がテクストから無限の意味を読み出す仕方は構造的に同一である。
                                               (p.55)

○私たちが師から学ぶのは何よりもまず「完全」という概念である。極論すれば、私たちが師から学ぶべきなのは「完全」という概念だけで足

りる(p.57)

●師は、なにごとか有用な知見を弟子に教えるのはない。そうではなくて、弟子の「内部」には存在しない知が、「外部」には存在する知を伝

えるのである。「師」とはなによりも「知のありかについての知」を弟子に伝える機能なのである。
                                            (p.59)

 学びの場においてかたちをとる外部性は自由を成就するのであって、自由を毀損するのではない。それが〈師〉の外部性である。一つの思考

は二人の人間がいないと明らかにはならない。それはすでに所有していたものを見いだすことに限らない。教える者の最初の教えは、教える者

の現前それ自体である。それに基づいて表象が到来するのである。
                             【TI p.48-9】


                                     1               思想・哲学研究会【レヴィナス】
                                                              (2011/8/27)
師としての他者は私たちに他者性の一つのモデルを提供してくれるだろう。師の他者性は、単に私との関係で異他的であるのではない。師の

他者性は「他なるもの」の本質に属しているにもかかわらず、一人の私を起点にしてしかかたちをとることのない、そのような他者性なのであ

る。【TI p.94】

●師が他者である、というのは単に師が私とは別人であるという意味ではない。師は弟子である私にはとても理解が届かない知的境位にいるの

だけれど、その「理解の届かなさ」は、弟子である私に固有のものであって、私以外の誰も(師の知友も、他の弟子たちも)代行できないよう

な「かけがえのない理解の届かなさ」であるということである。(p.23)

→師が「理解を超えている」ことは、弟子の「唯一無二性」を基礎づけるために必須の条件である。
                                            (p.24)(→弟子も大事)

●師は「最初の他者」である。ラビたちは神に出会うより先に、まず師に出会い、「出会い」の正当的なあり方を学ぶ。だから、師に仕えるこ

とと神を信じることは、ほとんど同じ身ぶりになる。
                       (p.24)

    一つの精神がおのれの外部にある別の精神に触れるのに使用しうる唯一の道具、それが知である。モーセが神と顔を向き合わせて語ったとい
                                                      顔

う伝承は、弟子と師とが二人ともタルムードの同じ教えの上に身をかがめて研究しているさまを意味している、と賢者は語り伝えている。【DL

p.49】

●弟子たちは師について、神に仕える仕方を、より広義には他者とかかわる仕方を学ぶ。それは2つのことを指す。①師を畏怖し、崇敬し、師

のうちには大洋にも比すべき叡智が宿っているという物語を受け容れること。②弟子は「同一の教え」について、師とは違う「注解」を語り、

同じ聖句について「同じ意味の新しい相」を見いだすということ。
                             (弟子を持たない師の叡智は誰にも知られずに失われる。
                                                      「私の知」を絶して

いるはずの「他者の知」にかたちを与えるのは、逆説的なことだが、「私の知」なのである。(p.25)
                                          )

●「弟子である」ということは、おのれを無にするという意味でも、うなだれて黙することでも、師の言葉をそのままおうむ返しにするという

ことでもない。弟子として師の叡智に圧倒されるものは、余人を以ては代え難い対話者として、師との「対話」を開始するためにそうするのだ。

弟子の責務は、師との「対話的運動」のうちに「唯一無二なもの」
                             「それまで誰によっても語られたことのないもの」をもたらすことである。
                                                              (p.25)

●弟子たちは「完全なる」テクストがより「完全」になるために必要なのである。(p.25)

●聖なるテクストが「完全記号」であるとレヴィナスは書いた。聖なるテクストが「完全」なのは、そこに「すべてが書かれている」からでは

なく、
  「すべてが思考されている」からである。(p.25-26)

●「すべてが思考されている」とはどういうことか。「いかにすぐれた思想といえども経験の意味を先取りすることはできずある特定の時代が

やってこない限り発語不能の語が存在する。」とは考えない。すべては、「現代社会のもっとも予見不能の側面でさえも」、この古代の賢者たち

によってすでに思考されている。
              (p.26)

●「思考されている」というのは、一義的に了解できる言葉として命題化されているという意味ではない。その反対である。「多様な読みへの

開放性」という仕方でタルムードは終わり無き注解を励起している。その開放性は、タルムードの仲での博士たちの議論(マハロケット)が最

終的な合意に至らない、という仕方で保証されている。(p.27)(→結論が問題ではない)

●タルムードの中では、一つの問いに対して何人ものラビたちがさまざまな注解を提出する。「祭礼の日に生まれた鶏卵を食べる権利は誰に属

するのか」「荒れ狂う牛がもたらした損害は誰が賠償するのか」などきわめて具体的な問いをめぐって、ラビたちは聖句を駆使して猛然と議論

する。レヴィナスはこの最終的な合意に達しないままに問題点が次々と掘り起こされてゆく論争の運動性、開放性のうちに、対話することへの

信頼、
  「他者」への敬意、知の権威を見るのである。
                      (p.29)

    条理と条理が正面からぶつかり合うこの堂々たる戦い、怒りもなければ嫉みもない、この戦いの中にこそ、正統なる思考は存立するのであり、

この戦いこそが世界に平和をもたらすのである。【DL p.48】

●    テクストについては「意味の複数性」がある。しかし恣意的な読みを意味しない読解のための厳密な「ルール」が存在する。(p.31)

    これは〈啓示〉が主観的な妄想の恣意性に委ねられているということをまったく意味しない。
                                             (…)
                                               「書物」の読みにもたらされた主観的な独

創性と、好事家(あるいは詐欺師)の妄想の単なる戯れのあいだには截然とした区別がある。その区別を立てることを可能にするのは、主観性

が必ずや読みの歴史的継続性をふまえているということ、注解の伝承がなされているということである。読み手がテクストから直接霊感を得た

からという口実でこの伝承を無視することは許されないのである。
                             【AV p.164】

●師を持たないものはタルムードの世界には踏み込むことが許されない。
                                (p.32)


                                   2                 思想・哲学研究会【レヴィナス】
                                                              (2011/8/27)
タルムードの諸規範は「何をなすべきか」「何をしてはならないか」にかかわる問答の下にしばしば深い哲学的省察を蔵しており、律法博士
                       、

たちの直接の関心はそこに向けられていたと思われる。

    たとえば、「祭礼の日に生まれた鶏卵」を食べる権利に関わる議論や「荒れ狂う牛」によってもたらされた被害に対する賠償にかかわる議論

の中でタルムードの賢者たりは鶏卵のことや牛のことを話しているのではない。そうではなくて、そんな気配をつゆほどもみせぬまま根本的な

概念を検討に付しているのである。このことを確信するためには正統的なタルムードの師に出会うことが必要である。【QLT p.13】

●タルムード解釈の基本は「口伝」である。師から弟子への「顔と顔を見合わせた対話」を通じてしか「歴史的継続性」は保証されない。律法

研究は本来師弟口伝のものである。(p.32)

●タルムードにおいては、 どれほどの知識」
           「         を持っているのかよりも、その知識を「どういう仕方」で伝授されたのかの方がはるかに重要。 p.34)
                                                               (

(=師に仕えて、その師から口伝を受け、その師を「完璧な師」とみなす正しい礼法をとることが重要。)



       フッサールによって始められた現象学
====== フッサールによって始められた現象学       ======
▲現象学とは

精神医学の権威ヴァン・デン・ベルクによれば、ある「時代や人々の世界を理解しようとすること、これが現象学の原理」(p.9)
                                                       。

現象学の創始者はエドムント・フッサール(1859~1938)である。




▲現象学の根本方法である「現象学的還元」とは?

    現象学的還元とは「体験」あるいは「経験」一般を「意識の経験」としてもう一度問い直してみる作業のこと。(p.50)

    EX.リンゴの例(p.74)

→自然的な態度は「いま目の前にリンゴが存在している。だから、いま私にその赤くて、丸くて、つやつやした様子が見えている」とする。こ

の態度をいったん中止する(=エポケー)。それを「いま私に赤くて、丸くて、つやつやした様子が見えている。だから私は目の前にリンゴが

実在しているという確信を持つのだ」という考え方へ変更する。(→原因と結果を逆転させる。)

実在論、観念論、反・実在論(『現象学入門』
                    (朝日カルチャーセンター講義)
                                  、2011 年、貫成人より)

何者かが「実在する」「存在する」とはいかなることを意味するのだろうか?
          、

実在論:
   「モノが存在する(★)。だから、モノを認識することができる。認識するからモノがあるわけではない。存在は認識と無関係・独立で

ある。
  」

観念論:
   「モノは私が認識した通りに存在する。」

反・実在論:通常の認識者は、現出の系列を都度認識(≡志向的相関)してその、存在、非存在を判断する。

実在論者に「モノが存在する(★)」などという資格はない。通常は認識を介して存在、非存在を判断するが、実在論者は原理的に認識され得

ないモノの存在を主張している。これは認識なしに存在を知り得ない「人間」の立場をこえた立ち位置、「神の視点」を取るに等しい。かとい

って、観念論ではない。モノの存在は私の認識に尽きるわけではない。私は誤るかもしれず、その都度の認識以上の何かがあるかもしれない。

▲なぜ現象学的還元をする必要があるのか。

 なぜ現象学的還元をする必要があるのか。それは認識の「確信成立」の条件を問うため。私の意識におけるどのような「現れ」が対象の一般
      、、
の存在確信の条件(あるいは構造)となっているのか。(p.74)

▲現象学的還元の遂行例(基本形)-知覚体験を自分の「意識体験」として内省によって記述すると?

    EX.暗がりの中の紙の例(p.47)

①    意識体験として見た知覚体験の第一の特質は、実際には「私」は常に対象の一部しか知覚していないが、それを「対象全体」として、ある


                                        3             思想・哲学研究会【レヴィナス】
                                                               (2011/8/27)
いは対象全体の一部として知覚している。(=理性定立。ここでの「理性」は根拠がある、妄想でないという意味)

    (現出・現出者→現出は変化しうるため、絶対的な確証は存在しない≒可謬性)

②    「物」の知覚には、中心的対象の知覚とその周りの背景(意識の庭)ということがつねにある(→「地」と「図」がある)

③    知覚体験には、ちょうど暗いところを懐中電灯で光をあてて物を見るように、主体の側から「注意を向けること」(=配意)という側面が

     ある

▲現象学的還元は信念対立を解決するヒント(
                    「認識問題」の書き換え)
                               (p.67-69)

①    われわれが「真理」とか「客観」と呼んでいるようなものは、万人が同じものとして認識=了解するもののことである。人間の認識は、共

    通認識の成立しえない領域を常に含んでおり、そのため、「絶対的な真理」「絶対的な客観」は成立しない。

②    共通認識、共通了解の成立する領域が必ず存在し、そこでは科学、学問的知、精密な学といったものが成り立つ可能性が原理的に存在する。

③    およそ人間社会における宗教、思想(イデオロギー)対立の源泉は、この領域の原理的な一致不可能性に由来する。

④    この認識領域の基本構造が意識され、自覚されるなら、そういった宗教、思想(イデオロギー)対立を克服する可能性の原理が現れる。す

    なわちそれは世界観、価値意識の「相互承認」という原理である。

⑤    異なった世界観、価値観の間の衝突や相剋を克服する原理は、ただ一つである。多様な世界観、価値観を不可欠かつ必然的なものとして「相

    互承認」することだが、この世界観、価値観の「相互承認」は、近代以降の「自由の相互承認」という理念を前提的根拠とする。

●フッサールによるノエマ・ノエシスという概念 EX.Fの鉛筆とセーラー服を着た女学生(p.102)

ノエマ:対象その都度の特殊な現れ方。ある対象について「意味的に把握されたもの」のこと。「対象そのもの」とは区別される)
                                           (

→ノエマの見え方を存在性格という。ノエマの多様な展開を通じて、その対象は私たちにとって、立体感や陰翳を増してゆき、いっそう豊かに、

明らかになってゆくのである。

ノエシス:「ノエマ」を志向する意識のあり方、「意味的に把握しつつある能作」。

→ノエシスのあり方を信念性格という。(EX.現認、想起、懐疑)対象はつねに確信や想起やや疑念といったそのつどの信念性格の違いに即

して現れるし、そのようにしてしか現れることができない。

●レヴィナスは「共同的に構成される知」「他者への開かれた知」の可能性を現象学の著作のうちに見出して、フッサールのもとを訪れた。し
       「共同的に構成される知」「他者への開かれた知」
                   、

かし、フッサールとの対話は行われなかった…(幻滅)(p.115)
                         。

    これまで何度も言ったことですが、フッサールはその探求とはうらはらに、あまりにも完成してしまっているように思えました。彼はおのれ

の探求についての探求を終えてしまっていた、という方があるいは正確かもしれません。【EL p.78-79】



       フッサールに対するレヴィナスの批判
====== フッサールに対するレヴィナスの批判       ======
                               ======
●現象学のうちには「他者」に対する「開かれ」の契機が確かに存在する。「志向性」という概念がそれである。
                                                  (p.120)
 、、、、、、、                、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
 思惟されたものは思惟のうちに理念的に現前する。思惟がおのれとは別のものを理念的に包含するこの仕方―――それが志向性である。それ

は外在する対象が意識と関係を持つということでも、意識そのもののうちで、ぴったり重なり合う二つの心的内容のあいだに関係が成り立つと
                                         、、、、、、、、、、、、、、、、、、
いうことでもない。志向性の関係は現実の二つの対象のあいだの関係ではまったくない。それは本質的に意味賦与行為なのである。 【EDE p.22】

●「思惟がおのれとは別のものを包含する仕方」とは。これはレヴィナスの終生の主題だった。現象学はその起点においては、「思惟が思惟を

超えるものを含む仕方」を探求する学だった。
                    (p.121)

    対象の外在性は、「思惟されるもの」をめざす思惟に対して「思惟されるもの」が外在するという自体そのものを表象している。そのような

仕方で、対象は意味という現象の不可避の契機となる。対象があるということは、フッサールの場合、なんらかの実在論の表現ではない。対象

は、フッサールの哲学において、ある意味を持った思惟の構造そのものによって規定されたもの、として現出する。思惟はそれが措定するある

同一性の極をめざすのである。フッサールが超越という理念を練り上げるための始点としたのは、体操の実在性ではなく、意味という観念だっ

たのである。
     【EDE p.22】

●「意味」(sens)がフランス語では「方向」をも意味する。「思惟されるもの」が、思惟によって「めざされること」、それが「意味」という

ことの本質である。
        (p.122)


                                        4              思想・哲学研究会【レヴィナス】
                                                                (2011/8/27)
●フッサール現象学においてもっとも豊かな洞見は、「対象という観念よりもむしろ意味という観念に優位性を与えたこと」であるとレヴィナ

スは言う。なぜなら、そのとき現象学は「意味を持つ」が「対象として十全的には把持できないもの」もの、すなわち「他者」について厳密な

学となりうる可能性を胚胎しているからである。(p.122)

 欲望や感情という志向は―――欲望や感情である限り―――独自の意味を持っており、それは狭義における対象的な意味ではない。思惟は一

つの意味を持つことができる、つまり何かが絶対的に非規定的であり、ほとんど対象の不在に等しい場合でさえ、その何かをめざすことができ

る、という考え方を哲学に導きいれたのはフッサールである。【EDE p.24】

●フッサールは「絶対的に非規定的」であり、「ほとんど対象の不在にひとしい」何者かをめざす能作を「見る」および「つかむ」という動詞

に託した。レヴィナスは「意味はあるが、見ることも、つかむこともできぬもの」をなお「めざす」ことのうちに現象学の面目は存すると考え

た。(p.124)

●フッサールの明証という概念は「対象がとの究極的様態において現前する様式」のこと。レヴィナスはフッサールの「明証」概念が一貫して

「光」の比喩をもって語られることに苛立ちを覚える(p.127)

 あらゆる志向の基礎には―――情動的な的な志向であれ関係的な志向であれ―――表象がある、ということは精神活動の全体を光を

モデルにして構想するということである。(…)明るさの奇蹟こそ思惟の奇蹟そのものである。対象と主体の関係は、単なる対象の主体への現

前ではなく、主体による対象の了解=包含、すなわち知解である。そして、この知解こそ明証なのである。そして、フッサールの志向性理論は

彼の明証理論と深く結びついており、窮極的には、精神と知解を同定すること、知解と光を同定することに存している。
                                                     【EDE p.24】

●主体が対象に向かうのは、必ずしも完全な明証のうちに看取するためではない。「汲み尽くせない」対象を主体がなお「めざしている」とい

う事況そのものが、主体を主体たらしめ、対象を対象たらしめている。(p.128)

 事物は決してことごとく知り尽くされるということがない。事物知覚の特徴は、それが本質的に十全に相応しないということに存する。

【PH p.45】

●志向的対象としての例が「りんごの木」や「さいころ」のような視覚的に十全相応的な把持が可能であるような事例を挙げるのに対して、レ

ヴィナスが「愛される人」と「書物」という、非-観想的な事例を挙げている。
                                   (p.169)

●非分節的な対象、包摂しえぬ対象との生き生きとした交わりは「見る」ことではなく、
                                       「聞き」
                                          「語りかける」ことによってはじめて成就する。

(p.138)

 観想がフッサールにおいていかに別格の威信を有していたにせよ、世界の存在の源泉である具体的な生は単なる観想ではない。

【PH p.45】

●具体的な生の意味は、観想や表象では掬いつくすことができない。フッサールの「直観作用:その対象に到達すること」に対して、レヴィナ

スは「意味作用:対象は見られず、触れられず、ただ対象はめざされる」を対置する。
                                      「めざす」
                                          (viser)という動詞には「不達成」
                                                            、彼我の「懸

隔」という含意を汲まなければならない。(p.134)

●「めざす」とは何よりも「対話」という様態において対象と向き合う、という経験なのである。(p.135)

 意味作用とは日常会話ということである。例えば、私たちが画像や知覚を有していない場合、私たちは単に対象をめざすという行為にみずか

らを限定している。それでも、私たちは自分に向けて何が語られているのか、自分が何を語っているのかわきまえている。【PH p.102】



 語られたこと、伝達された内容は、顔と顔を向き合わせるというこのかかわり方を通してしか届かない。このかかわりにおいて、他者は認識
                 顔 顔

されるに先だって、まず対話者としてそこにいる。まなざしを見つめる。まなざしをみつめること、それは身を放棄せぬもの、身を委ねぬもの、
            、、、                 、
にもかかわらずこちらをめざすものを見つめることである。これが「顔」をみることなのである。
                               顔            【DL p.21】

●「顔」とは「めざされているもの」でありかつ「こちらを見返すもの」である。「顔」は視覚的・観想的な能作の対象ではない。それは何よ

りもまず聴覚的な経験、つまり「語りかけ、聞き取る」ことなのである。

 顔は包摂されることを拒否することのうちに現前する。その意味で顔は理解不能、包摂不能である。顔は見られることも、触れられることも
                               顔              顔

ない。なぜなら視覚的あるいは触覚的感官を通じてでは、自我の同一性が他者性を包み込み、まさしく自我の同一性に包摂されてしまうからで

ある。
  【TI p.168】


                                   5                  思想・哲学研究会【レヴィナス】
                                                               (2011/8/27)
====== 「謎(エニグム)
              」という概念について ======
●別紙3参照(p.39)
    参照

内田氏がレヴィナスを始めて読んだ際に抱いた感情。それはレヴィナスの言葉を用いて言えば「謎」
                                            。

●世の中には「難解だけれど、分からなくても別に困らない」種類の難解さと、「難解だけれど、早急に何とかしたい気がする」種類の難解さ

がある。レヴィナスの難解さは後者である。(p.140)
    、、
○謎は「何を意味するのか分からないが、何かを意味していることだけは分かる」がゆえに、シニフィアンの終わりなき入れ替えを励起する「何

か」のことである。
        (p.87)

 「他者」がおのれの匿名性を維持しつつ、私の認知を呼び求めるこの仕方、了解や共犯性の目配せをきっぱりと退けて、おのれを検事するこ

となしに顕示するこの仕方を、私たちは「現象」という慎みのない、誇らしげな顕現と対立するものとして、そのギリシャ語の語源に遡って、

「謎」
  (エニグム)と呼ぼうと思う。【EDE p.209】



====== 「他者」という概念について          ======
○独学者とは「他者」に双数的=想像的構えで立ち向かうもののこと。彼の目の前にいるのは、彼と同類等格の「他我」、彼自身の「鏡像」に

過ぎない。(p.95)(ここでの「想像」的とはラカンの想像界の想像)

○独学者は「他者とは何か?」を考究する設問形式でしか他者問題に接近しない。その設問の形式そのものが「既知への還元」を根元的趨勢と

してすでに前提にしていることに独学者は気づいていない。
                          (p.96)

○そのつどすでに既知であるものを既知に繰り込むこと、それが西欧の思想における「知」の機能である(p.97)。独学者の例:眼前にあるテ

クストを、そこから得られる学術情報をおのれの知的資産の目録に書き加えようとして読む者(p.99)

○レヴィナスが「〈他なる者〉の〈同一的なもの〉への還元」というのはこのような状況である。(p.98)

 「他なるもの」の中立化―――主題あるいは対象となること、つまりは明るみの中に位置づけられるという仕方で顕現すること―――はまさ

しく「他なるもの」の「同一的なもの」への還元に他ならない。【EDE p.14】

○レヴィナスが告げているのは、テクストを読むテクストを読む行為そのものが「出来事」であるような読みを試みよということである。我々

は独学者であることを止めなければならない。それは端的には、今読みつつある等のテクストの書き手を「師としての他者」に擬し、師が蔵す

る「謎」を「欲望する」という仕方で(…)踏み出すような読みを試みることである。
                                      (p.99)

絶対的に他なるもの、それが「他者」である。それは自我と同じ度量衡をもっては計量することのできぬものである。私が「あなたは」あるい

は「私たちは」と言うときの集団性は、「私」の複数形ではない。私、あなた、それはある共通概念の個体化したものではない。所有も、度量

衡の一致も、概念の一致も、私を他者に結びつけることはない。共通の祖国の不在、それが「他なるもの」を「異邦人」たらしめている。
                                                             【EDE

p. 9】

○内田氏のいう「象徴界」「想像界」の定義(p.102)
           ・

象徴界…「私がその理解も共感も絶した他者、いかなる度量衡も共有されない他者に出会う境位」

想像界…「私が出会う人々が、私たちとともに一つの全体性を構成している、感情移入可能な他我であるような境位」

○他我…私と同じ資格で、私とは「別の主観」として、同一の客観的世界を経験しているもののことである。
                                                (p.102)私に代わって、対象の無

数の相を同時に見つめているこの「想像上の私」たち。「私が見ていないものを見て、それによって私の知覚の真正性を担保してくれる他者」

のこと。(p.102-104)

 わたしは他我を同時に、この世界に対する主観として経験する。すなわちわたしは他我を、この世界、つまりわたし自身が経験するのと同一

のこの世界を経験し、そのさいわたしをも、すなわち世界を経験しその世界の中において他我を経験するものとしてのわたしをも経験するもの

として、経験する。
        【XX p. 276】




                                       6             思想・哲学研究会【レヴィナス】
                                                              (2011/8/27)
○主観性とはそのつどすでに間主観性である。間主観性が成り立つときには、他我が事実的に存在する必要さえない。EX.世界中の人間がペ

ストで死滅して、私一人が取り残されても、それによってもなお「世界が存在する」という私の確信は揺らぐことはない。(p.104)

○他者…自我と間主観的な次元を共有することがない。他者は、端的に自我の共感も想像も絶しており、自我といかなる共通の次元も度量衡も

境界線も持たない。
        (p.105)

△EX.「暗闇からドカン」、麻雀のリーチ中に「ロイヤルストレートフラッシュ!」とあがる人(p.113)



====== 「顔」という概念について ======
●レヴィナスの鍵概念として知られている多くの術語―――「他者」「顔」「イリヤ」「有責性」「デザンテレスマン」「第三者」「彼性」な
                               、  、    、    、         、    、

ど―――はいずれも一義的な定義をきっぱりと拒絶(p.46)(CF.わかろうと思わないラカン)

●レヴィナスについては決定的な読み方は存在しない。(p.47)

●「他者」という概念はきわめて難解であり、一義的定義になじまない。その理由の一つはそれが単に「難解な概念」というよりは、
                                                           「他者」

が、その都度「私」と同時に新たに生起するということにかかわる。「私」と「他者」はあらかじめ独立した二項として、自存的に対峙してい

るのではなく、出来事のうちで同時的に生成する。(p.70-71)

●「他者」が私に相関する概念ならば、「私」がどのようなあり方をするかによって、「他者」のあり方も変わってくる。「私」あるいは主体に

は二つの様態がある。(p.71)

①「全体性を志向する私」
           :術語的には「自己」
                    (Soi)。自己はおのれを中心とした支配圏を拡大したいという志向と、絶えず運動し続けたいと

いう志向という二つの矛盾した特性を併せ持つ。レヴィナスはこのような自己のあり方を「その遍歴の果てに必ずや故郷の島に戻るオデュッセ

ウス」になぞらえる。オデュッセウスの冒険は、
                     「未知なもの」を絶えず「既知」に還元し、より包括的な全体性を構築するためにある。
                                                            「自己」

にとって「他なるもの」とは「自己ならざるもの」一般。それらは経験され、征服され、所有される。
                                             「自己」は構造的に外部を持たない。
                                                             「他

なるもの」は「自己」とともにある全体性を構築する。

私とはいつも同一的である存在者のことではない。どのような経験を経由したあとでも、自己同定でき、おのれの自己同一性を再認できるよう

な仕方で存在するような存在者のことをいうのである。【TI p.6】

●自己同一性とは「他の何ものに根拠づけられるまでもなく、自己同定する【DL p.73】」能力のこと。

●レヴィナスによれば「他の人間は私が殺したいと望む唯一の存在者【TI p.173】」

②「無限を志向する私」:モデルは「アブラハム」に求められる。神はアブラハムに対して何の理由もなく、非文脈的に「あなたは、あなたの

生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい【『創世記』十二章一節】
                                         」と告げる。アブラハムはその「選び」を受け容れ

る。そして、故郷と父の家を棄て二度とたち帰らないという決断によって主体性を獲得する。それは「他者からの呼びかけ」に応えることで成

立する。この「主体」が出会うのは「他なるもの」ではなく、「絶対的に他なるもの」すなわち「他者」である。



 殺人よりも強いこの無限、それが私たちにすでに顔として抵抗している。無限とは顔である。起源的表現である。
                       顔              顔             「汝、殺すなかれ」という

最初の言葉である。無限は殺害に対する無限の抵抗をもって権力を麻痺させる。その堅牢で乗り越え不能の抵抗は、他者の顔を通じて、その目
                                                       顔

の完全に無防備な裸形性を通じて、
               「超越者」の絶対的開放性の裸形性を通じて、輝くのである。ここにあるのは強い抵抗力との関係ではない。

絶対的に「他なるもの」との関係である。【TI p.173】


                                    7                 思想・哲学研究会【レヴィナス】
                                                               (2011/8/27)
●私が「他者」を把持できるつもりでいる限り、私は「他者」を殺すことができる。しかし、私が自分の能力と権能に不安を覚えたときに、私

は不意に「他者」にその優位性を致命的な仕方で脅かされているおのれを見出す。
                                    「他者」は私の全能性の翳りのうちにすまうのである。
                                                            (p.78)

 他者は私に戦いを挑むことができる。しかし、他者を打ち砕こうとしている力に対して抵抗の力を対置させるのではない。その反応の予見不

能性を対置するのである。他者はより大きな力をもって私に対峙するのではない(比量可能な力であれば、他者は私とともにある全体の一部だ

ということになってしまうからだ)。そうではなくて、この全体を他者が超越しているという事実そのものによって私に対峙するのである。
                                                              【TI

p.173】引用P77

●「他者」の抵抗力を構成するのは、その「予見不能性」である。
                             「予見」するのは私。私があることが「できない」ということが「他者」の

抵抗力の淵源なのである。
           (p.77-78)(×他者が「私より強い」力を持つというのは度量衡を私と共有していて一つの全体性を分かつ)

●「顔」(visage)という鍵概念の最小限の定義、「顔」とは「他者」が私と対面する事況を意味する。(p.78)

●オデュッセウス的主体は、結局「他者」との対面状況から撤退してしまう。「他者」の「他者性」からは隔絶されている。(p.80)

 主体とは、出来事に巻き込まれずにいる権能を留保しつつ、出来事とかかわりをもつ一つの仕方である。主体とは、出来事と関わりをもつ一

つの仕方である。主体とは無限に交代する能力、私たちの身に起こる出来事から逃れる能力のことである。(…)主体とはあらゆる対象に対し

てすでに自由であること、後退、
              「よそよそしさ」なのである。【EE p.144】

●アブラハムはまた、主から自分の子イサクをモリヤの地で自分の子を全焼ののいけにえとして捧げるように非文脈的に言われる。主が告げた

内容に関しての問いに答えはない。それは「他者」と私を同時に包摂し、それぞれの行為の意味や適否を教えてくれるはずの客観的な判断枠組

み=全体性がここに欠落しているため。言葉の意味を彼はただ一人で、おのれの全責任において解釈するほかない。アブラハムは「誰によって

も代替不能な有責性を引き受けるもの」として立ち上がる。このようにして自立したものを「主体」あるいは「成人」
                                                    (adulte)と名付ける。
                                                                 「成

熟した人間」
     、それがアブラハム的主体の別名である。(p.82-84)

 秩序無き世界、すなわち善が勝利しえない世界における犠牲者の位置を受難と呼ぶ。この受難が、いかなるかたちであれ、救い主として顕現

することを拒み、地上的不正の責任を一身に引き受けることのできる人間の完全なる成熟をこそ要求数神を開示するのである。(…)不在の神

になお信を置きうる人間を成熟した人間と呼ぶ。それはおのれの弱さを計量できるもののことである。【EL p.205】

●「神無き世界にあって、なお善く行動することができると信じるもの」
                                、それが真の意味での主体である。(p.84)



        参考書籍>
====== <参考書籍> ======
●『レヴィナスと愛の現象学』(せりか書房)、2001 年、内田樹

○『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』(海鳥社)、2004 年、内田樹

▲『現象学は〈思考の原理〉である』(ちくま新書)、2001 年、竹田青嗣

△『哲学個人授業』
        (ちくま文庫)
              、2011 年、鷲田清一 永江朗



====== <レヴィナス関連書籍>     ======
DL-『困難な自由』、エマニュエル・レヴィナス、内田樹訳、国文者、1985

TI-『全体性と無限』エマニュエル・レヴィナス、合田正人訳、国文社、1989

AV-『聖句の彼方』エマニュエル・レヴィナス、合田正人訳、法政大学出版局、1996

QLT-『タルムード四講話』エマニュエル・レヴィナス p.13、内田樹訳、国文社、1987

EL-『暴力と聖性』エマニュエル・レヴィナス&フランソワ・ポワリエ、内田樹訳、国文社、1991

EDE-『フッサールとハイデガー』
                (抄訳)エマニュエル・レヴィナス、丸山静訳、せりか書房、1977/『実存の発見、佐藤心理人、小川昌宏、三

  谷嗣、河合孝昭訳、法政大学出版局、1996

EE-『実存から実存者へ』エマニュエル・レヴィナス、西谷修訳、朝日出版社、1987/講談社学術文庫、1996

PH-『フッサール現象学の直観理論』、エマニュエル・レヴィナス、佐藤真理人訳、法政大学出版局、1991

XX-『デカルト的省察』
           「世界の名著 51」エドムント・フッサール、船橋弘訳、中央公論者社


                                     8                   思想・哲学研究会【レヴィナス】
                                                                  (2011/8/27)

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発表資料レヴィナス 20110827

  • 1. ====== <テーマ> ====== レヴィナスの「師」「他者」「顔」 ・ ・ 児玉雄樹 ====== <目的> ====== 2010 年末に私の実家がある鳥取に帰省した際、私が高校時代に所属していた剣道部の顧問だった私の師と話す機会があり、内田樹氏の著作等 を紹介して頂いた。内田樹氏のレヴィナス論を通して「師」とはなにか、「他者」とはなにかということを考えてみたい。また、私の師が「教 育活動の核」としているレヴィナスの「顔」という概念を探求してみたい。別紙1参照 別紙1 別紙 ====== <基本情報> ====== エマニュエル・レヴィナス 1906 年にリトアニアのカウナスにおいて書籍商を父とし、長男として生まれたユダヤ人哲学者。(サルトル、アーレント、ベケットと誕生が同 年)フッサールとハイデガーに現象学を学び、フランスに帰化。第二次世界大戦に志願するが、ドイツの捕虜収容所に囚われて4年を過ごし、 帰還後、ユダヤ人を襲った災厄を知る。ソルボンヌ大学等で教鞭をとる。 『超越・外傷・神曲』 『時間と他者』 『実存の発見』 『全体性と無限』な ど著書多数。95 年没。 ====== 「師」という概念について ====== ●タルムードのテクストは「完全記号」とレヴィナスはいう。(p.7)(タルムードとはユダヤ教の教典古来の口伝律法を文書化したもの。) ●師に仕えるというのは「完全なる無謬の師」や「すべての意味がそこに見出せるテクスト」という物語に有り金を賭けること(p.8) ●EX.レヴィナスにとってのモルテガイ・シュシャーニ師に対して抱く「知の大洋」別紙2参照 別紙2 別紙 参照(p.14) ラビ・エルゼルは言った。「もしすべての海がインクで、すべての湖沼に葦が生え、天と地が羊皮紙で、すべての人が文字を書く術を知って いるとしても、彼らは私が師から学んだ律法のすべてを書き尽くすことはできないだろう。一方、律法はそんなことをしても大洋に筆の先をひ たして吸い上げたほどもその水量を失いはしないだろう」【DL p.48-9】 。 ●「知の大洋」という比喩は「量」ではなく「関係」の比喩(p.17) ●師とは私たちが成長の過程で最初に出会う「他者」のことである。(p.18) ●師弟関係-何らかの定量可能な学知や技術を伝承する関係ではなく、「私の理解も共感も絶した知的境位がある」という「物語」を受け入れ る、という決断のこと。言い換えれば、師事するとは、「他者がいる」という事実それ自体を学習する経験(p.18) EX.私の高校時代における体験(剣道部の稽古終了後の師の言葉等) ●「知」とは情報や知識の「量」ではない。「私が知らないことを知っている人」との対話に入る能力のこと(p.18) ●私たちが学校へ行くのは、「適切な仕方で質問をすると、自分ひとりでは達しえない答えのありかを知ることができる」ということ、不能の 様態を適切に言語化する仕方を学ぶため。(p.19) ●「師」とは「想像的に措定された俯瞰的な視座」「弟子をマップする視座のこと」 、 (p.21) ●「弟子になる」「師に仕える」とは、まず「師を畏怖する」ことを学習することから始まる。そして、それこそが師から弟子が習得する最初 、 の、そしておそらくはもっとも貴重なスキル。それがなければ「外部から到来するもの」に耳を傾けることはできず、「おのれの理解も共感も 絶したもの(=他者)」となお対話を試みることが出来ない。(p.22) ○タルムードのテクストが完全記号であるのと同じ仕方で、 「他者としての師」は「完全な師」である。(p.57) ○弟子が師について学ぶ仕方と、読み手がテクストから無限の意味を読み出す仕方は構造的に同一である。 (p.55) ○私たちが師から学ぶのは何よりもまず「完全」という概念である。極論すれば、私たちが師から学ぶべきなのは「完全」という概念だけで足 りる(p.57) ●師は、なにごとか有用な知見を弟子に教えるのはない。そうではなくて、弟子の「内部」には存在しない知が、「外部」には存在する知を伝 えるのである。「師」とはなによりも「知のありかについての知」を弟子に伝える機能なのである。 (p.59) 学びの場においてかたちをとる外部性は自由を成就するのであって、自由を毀損するのではない。それが〈師〉の外部性である。一つの思考 は二人の人間がいないと明らかにはならない。それはすでに所有していたものを見いだすことに限らない。教える者の最初の教えは、教える者 の現前それ自体である。それに基づいて表象が到来するのである。 【TI p.48-9】 1 思想・哲学研究会【レヴィナス】 (2011/8/27)
  • 2. 師としての他者は私たちに他者性の一つのモデルを提供してくれるだろう。師の他者性は、単に私との関係で異他的であるのではない。師の 他者性は「他なるもの」の本質に属しているにもかかわらず、一人の私を起点にしてしかかたちをとることのない、そのような他者性なのであ る。【TI p.94】 ●師が他者である、というのは単に師が私とは別人であるという意味ではない。師は弟子である私にはとても理解が届かない知的境位にいるの だけれど、その「理解の届かなさ」は、弟子である私に固有のものであって、私以外の誰も(師の知友も、他の弟子たちも)代行できないよう な「かけがえのない理解の届かなさ」であるということである。(p.23) →師が「理解を超えている」ことは、弟子の「唯一無二性」を基礎づけるために必須の条件である。 (p.24)(→弟子も大事) ●師は「最初の他者」である。ラビたちは神に出会うより先に、まず師に出会い、「出会い」の正当的なあり方を学ぶ。だから、師に仕えるこ とと神を信じることは、ほとんど同じ身ぶりになる。 (p.24) 一つの精神がおのれの外部にある別の精神に触れるのに使用しうる唯一の道具、それが知である。モーセが神と顔を向き合わせて語ったとい 顔 う伝承は、弟子と師とが二人ともタルムードの同じ教えの上に身をかがめて研究しているさまを意味している、と賢者は語り伝えている。【DL p.49】 ●弟子たちは師について、神に仕える仕方を、より広義には他者とかかわる仕方を学ぶ。それは2つのことを指す。①師を畏怖し、崇敬し、師 のうちには大洋にも比すべき叡智が宿っているという物語を受け容れること。②弟子は「同一の教え」について、師とは違う「注解」を語り、 同じ聖句について「同じ意味の新しい相」を見いだすということ。 (弟子を持たない師の叡智は誰にも知られずに失われる。 「私の知」を絶して いるはずの「他者の知」にかたちを与えるのは、逆説的なことだが、「私の知」なのである。(p.25) ) ●「弟子である」ということは、おのれを無にするという意味でも、うなだれて黙することでも、師の言葉をそのままおうむ返しにするという ことでもない。弟子として師の叡智に圧倒されるものは、余人を以ては代え難い対話者として、師との「対話」を開始するためにそうするのだ。 弟子の責務は、師との「対話的運動」のうちに「唯一無二なもの」 「それまで誰によっても語られたことのないもの」をもたらすことである。 (p.25) ●弟子たちは「完全なる」テクストがより「完全」になるために必要なのである。(p.25) ●聖なるテクストが「完全記号」であるとレヴィナスは書いた。聖なるテクストが「完全」なのは、そこに「すべてが書かれている」からでは なく、 「すべてが思考されている」からである。(p.25-26) ●「すべてが思考されている」とはどういうことか。「いかにすぐれた思想といえども経験の意味を先取りすることはできずある特定の時代が やってこない限り発語不能の語が存在する。」とは考えない。すべては、「現代社会のもっとも予見不能の側面でさえも」、この古代の賢者たち によってすでに思考されている。 (p.26) ●「思考されている」というのは、一義的に了解できる言葉として命題化されているという意味ではない。その反対である。「多様な読みへの 開放性」という仕方でタルムードは終わり無き注解を励起している。その開放性は、タルムードの仲での博士たちの議論(マハロケット)が最 終的な合意に至らない、という仕方で保証されている。(p.27)(→結論が問題ではない) ●タルムードの中では、一つの問いに対して何人ものラビたちがさまざまな注解を提出する。「祭礼の日に生まれた鶏卵を食べる権利は誰に属 するのか」「荒れ狂う牛がもたらした損害は誰が賠償するのか」などきわめて具体的な問いをめぐって、ラビたちは聖句を駆使して猛然と議論 する。レヴィナスはこの最終的な合意に達しないままに問題点が次々と掘り起こされてゆく論争の運動性、開放性のうちに、対話することへの 信頼、 「他者」への敬意、知の権威を見るのである。 (p.29) 条理と条理が正面からぶつかり合うこの堂々たる戦い、怒りもなければ嫉みもない、この戦いの中にこそ、正統なる思考は存立するのであり、 この戦いこそが世界に平和をもたらすのである。【DL p.48】 ● テクストについては「意味の複数性」がある。しかし恣意的な読みを意味しない読解のための厳密な「ルール」が存在する。(p.31) これは〈啓示〉が主観的な妄想の恣意性に委ねられているということをまったく意味しない。 (…) 「書物」の読みにもたらされた主観的な独 創性と、好事家(あるいは詐欺師)の妄想の単なる戯れのあいだには截然とした区別がある。その区別を立てることを可能にするのは、主観性 が必ずや読みの歴史的継続性をふまえているということ、注解の伝承がなされているということである。読み手がテクストから直接霊感を得た からという口実でこの伝承を無視することは許されないのである。 【AV p.164】 ●師を持たないものはタルムードの世界には踏み込むことが許されない。 (p.32) 2 思想・哲学研究会【レヴィナス】 (2011/8/27)
  • 3. タルムードの諸規範は「何をなすべきか」「何をしてはならないか」にかかわる問答の下にしばしば深い哲学的省察を蔵しており、律法博士 、 たちの直接の関心はそこに向けられていたと思われる。 たとえば、「祭礼の日に生まれた鶏卵」を食べる権利に関わる議論や「荒れ狂う牛」によってもたらされた被害に対する賠償にかかわる議論 の中でタルムードの賢者たりは鶏卵のことや牛のことを話しているのではない。そうではなくて、そんな気配をつゆほどもみせぬまま根本的な 概念を検討に付しているのである。このことを確信するためには正統的なタルムードの師に出会うことが必要である。【QLT p.13】 ●タルムード解釈の基本は「口伝」である。師から弟子への「顔と顔を見合わせた対話」を通じてしか「歴史的継続性」は保証されない。律法 研究は本来師弟口伝のものである。(p.32) ●タルムードにおいては、 どれほどの知識」 「 を持っているのかよりも、その知識を「どういう仕方」で伝授されたのかの方がはるかに重要。 p.34) ( (=師に仕えて、その師から口伝を受け、その師を「完璧な師」とみなす正しい礼法をとることが重要。) フッサールによって始められた現象学 ====== フッサールによって始められた現象学 ====== ▲現象学とは 精神医学の権威ヴァン・デン・ベルクによれば、ある「時代や人々の世界を理解しようとすること、これが現象学の原理」(p.9) 。 現象学の創始者はエドムント・フッサール(1859~1938)である。 ▲現象学の根本方法である「現象学的還元」とは? 現象学的還元とは「体験」あるいは「経験」一般を「意識の経験」としてもう一度問い直してみる作業のこと。(p.50) EX.リンゴの例(p.74) →自然的な態度は「いま目の前にリンゴが存在している。だから、いま私にその赤くて、丸くて、つやつやした様子が見えている」とする。こ の態度をいったん中止する(=エポケー)。それを「いま私に赤くて、丸くて、つやつやした様子が見えている。だから私は目の前にリンゴが 実在しているという確信を持つのだ」という考え方へ変更する。(→原因と結果を逆転させる。) 実在論、観念論、反・実在論(『現象学入門』 (朝日カルチャーセンター講義) 、2011 年、貫成人より) 何者かが「実在する」「存在する」とはいかなることを意味するのだろうか? 、 実在論: 「モノが存在する(★)。だから、モノを認識することができる。認識するからモノがあるわけではない。存在は認識と無関係・独立で ある。 」 観念論: 「モノは私が認識した通りに存在する。」 反・実在論:通常の認識者は、現出の系列を都度認識(≡志向的相関)してその、存在、非存在を判断する。 実在論者に「モノが存在する(★)」などという資格はない。通常は認識を介して存在、非存在を判断するが、実在論者は原理的に認識され得 ないモノの存在を主張している。これは認識なしに存在を知り得ない「人間」の立場をこえた立ち位置、「神の視点」を取るに等しい。かとい って、観念論ではない。モノの存在は私の認識に尽きるわけではない。私は誤るかもしれず、その都度の認識以上の何かがあるかもしれない。 ▲なぜ現象学的還元をする必要があるのか。 なぜ現象学的還元をする必要があるのか。それは認識の「確信成立」の条件を問うため。私の意識におけるどのような「現れ」が対象の一般 、、 の存在確信の条件(あるいは構造)となっているのか。(p.74) ▲現象学的還元の遂行例(基本形)-知覚体験を自分の「意識体験」として内省によって記述すると? EX.暗がりの中の紙の例(p.47) ① 意識体験として見た知覚体験の第一の特質は、実際には「私」は常に対象の一部しか知覚していないが、それを「対象全体」として、ある 3 思想・哲学研究会【レヴィナス】 (2011/8/27)
  • 4. いは対象全体の一部として知覚している。(=理性定立。ここでの「理性」は根拠がある、妄想でないという意味) (現出・現出者→現出は変化しうるため、絶対的な確証は存在しない≒可謬性) ② 「物」の知覚には、中心的対象の知覚とその周りの背景(意識の庭)ということがつねにある(→「地」と「図」がある) ③ 知覚体験には、ちょうど暗いところを懐中電灯で光をあてて物を見るように、主体の側から「注意を向けること」(=配意)という側面が ある ▲現象学的還元は信念対立を解決するヒント( 「認識問題」の書き換え) (p.67-69) ① われわれが「真理」とか「客観」と呼んでいるようなものは、万人が同じものとして認識=了解するもののことである。人間の認識は、共 通認識の成立しえない領域を常に含んでおり、そのため、「絶対的な真理」「絶対的な客観」は成立しない。 ② 共通認識、共通了解の成立する領域が必ず存在し、そこでは科学、学問的知、精密な学といったものが成り立つ可能性が原理的に存在する。 ③ およそ人間社会における宗教、思想(イデオロギー)対立の源泉は、この領域の原理的な一致不可能性に由来する。 ④ この認識領域の基本構造が意識され、自覚されるなら、そういった宗教、思想(イデオロギー)対立を克服する可能性の原理が現れる。す なわちそれは世界観、価値意識の「相互承認」という原理である。 ⑤ 異なった世界観、価値観の間の衝突や相剋を克服する原理は、ただ一つである。多様な世界観、価値観を不可欠かつ必然的なものとして「相 互承認」することだが、この世界観、価値観の「相互承認」は、近代以降の「自由の相互承認」という理念を前提的根拠とする。 ●フッサールによるノエマ・ノエシスという概念 EX.Fの鉛筆とセーラー服を着た女学生(p.102) ノエマ:対象その都度の特殊な現れ方。ある対象について「意味的に把握されたもの」のこと。「対象そのもの」とは区別される) ( →ノエマの見え方を存在性格という。ノエマの多様な展開を通じて、その対象は私たちにとって、立体感や陰翳を増してゆき、いっそう豊かに、 明らかになってゆくのである。 ノエシス:「ノエマ」を志向する意識のあり方、「意味的に把握しつつある能作」。 →ノエシスのあり方を信念性格という。(EX.現認、想起、懐疑)対象はつねに確信や想起やや疑念といったそのつどの信念性格の違いに即 して現れるし、そのようにしてしか現れることができない。 ●レヴィナスは「共同的に構成される知」「他者への開かれた知」の可能性を現象学の著作のうちに見出して、フッサールのもとを訪れた。し 「共同的に構成される知」「他者への開かれた知」 、 かし、フッサールとの対話は行われなかった…(幻滅)(p.115) 。 これまで何度も言ったことですが、フッサールはその探求とはうらはらに、あまりにも完成してしまっているように思えました。彼はおのれ の探求についての探求を終えてしまっていた、という方があるいは正確かもしれません。【EL p.78-79】 フッサールに対するレヴィナスの批判 ====== フッサールに対するレヴィナスの批判 ====== ====== ●現象学のうちには「他者」に対する「開かれ」の契機が確かに存在する。「志向性」という概念がそれである。 (p.120) 、、、、、、、 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、 思惟されたものは思惟のうちに理念的に現前する。思惟がおのれとは別のものを理念的に包含するこの仕方―――それが志向性である。それ は外在する対象が意識と関係を持つということでも、意識そのもののうちで、ぴったり重なり合う二つの心的内容のあいだに関係が成り立つと 、、、、、、、、、、、、、、、、、、 いうことでもない。志向性の関係は現実の二つの対象のあいだの関係ではまったくない。それは本質的に意味賦与行為なのである。 【EDE p.22】 ●「思惟がおのれとは別のものを包含する仕方」とは。これはレヴィナスの終生の主題だった。現象学はその起点においては、「思惟が思惟を 超えるものを含む仕方」を探求する学だった。 (p.121) 対象の外在性は、「思惟されるもの」をめざす思惟に対して「思惟されるもの」が外在するという自体そのものを表象している。そのような 仕方で、対象は意味という現象の不可避の契機となる。対象があるということは、フッサールの場合、なんらかの実在論の表現ではない。対象 は、フッサールの哲学において、ある意味を持った思惟の構造そのものによって規定されたもの、として現出する。思惟はそれが措定するある 同一性の極をめざすのである。フッサールが超越という理念を練り上げるための始点としたのは、体操の実在性ではなく、意味という観念だっ たのである。 【EDE p.22】 ●「意味」(sens)がフランス語では「方向」をも意味する。「思惟されるもの」が、思惟によって「めざされること」、それが「意味」という ことの本質である。 (p.122) 4 思想・哲学研究会【レヴィナス】 (2011/8/27)
  • 5. ●フッサール現象学においてもっとも豊かな洞見は、「対象という観念よりもむしろ意味という観念に優位性を与えたこと」であるとレヴィナ スは言う。なぜなら、そのとき現象学は「意味を持つ」が「対象として十全的には把持できないもの」もの、すなわち「他者」について厳密な 学となりうる可能性を胚胎しているからである。(p.122) 欲望や感情という志向は―――欲望や感情である限り―――独自の意味を持っており、それは狭義における対象的な意味ではない。思惟は一 つの意味を持つことができる、つまり何かが絶対的に非規定的であり、ほとんど対象の不在に等しい場合でさえ、その何かをめざすことができ る、という考え方を哲学に導きいれたのはフッサールである。【EDE p.24】 ●フッサールは「絶対的に非規定的」であり、「ほとんど対象の不在にひとしい」何者かをめざす能作を「見る」および「つかむ」という動詞 に託した。レヴィナスは「意味はあるが、見ることも、つかむこともできぬもの」をなお「めざす」ことのうちに現象学の面目は存すると考え た。(p.124) ●フッサールの明証という概念は「対象がとの究極的様態において現前する様式」のこと。レヴィナスはフッサールの「明証」概念が一貫して 「光」の比喩をもって語られることに苛立ちを覚える(p.127) あらゆる志向の基礎には―――情動的な的な志向であれ関係的な志向であれ―――表象がある、ということは精神活動の全体を光を モデルにして構想するということである。(…)明るさの奇蹟こそ思惟の奇蹟そのものである。対象と主体の関係は、単なる対象の主体への現 前ではなく、主体による対象の了解=包含、すなわち知解である。そして、この知解こそ明証なのである。そして、フッサールの志向性理論は 彼の明証理論と深く結びついており、窮極的には、精神と知解を同定すること、知解と光を同定することに存している。 【EDE p.24】 ●主体が対象に向かうのは、必ずしも完全な明証のうちに看取するためではない。「汲み尽くせない」対象を主体がなお「めざしている」とい う事況そのものが、主体を主体たらしめ、対象を対象たらしめている。(p.128) 事物は決してことごとく知り尽くされるということがない。事物知覚の特徴は、それが本質的に十全に相応しないということに存する。 【PH p.45】 ●志向的対象としての例が「りんごの木」や「さいころ」のような視覚的に十全相応的な把持が可能であるような事例を挙げるのに対して、レ ヴィナスが「愛される人」と「書物」という、非-観想的な事例を挙げている。 (p.169) ●非分節的な対象、包摂しえぬ対象との生き生きとした交わりは「見る」ことではなく、 「聞き」 「語りかける」ことによってはじめて成就する。 (p.138) 観想がフッサールにおいていかに別格の威信を有していたにせよ、世界の存在の源泉である具体的な生は単なる観想ではない。 【PH p.45】 ●具体的な生の意味は、観想や表象では掬いつくすことができない。フッサールの「直観作用:その対象に到達すること」に対して、レヴィナ スは「意味作用:対象は見られず、触れられず、ただ対象はめざされる」を対置する。 「めざす」 (viser)という動詞には「不達成」 、彼我の「懸 隔」という含意を汲まなければならない。(p.134) ●「めざす」とは何よりも「対話」という様態において対象と向き合う、という経験なのである。(p.135) 意味作用とは日常会話ということである。例えば、私たちが画像や知覚を有していない場合、私たちは単に対象をめざすという行為にみずか らを限定している。それでも、私たちは自分に向けて何が語られているのか、自分が何を語っているのかわきまえている。【PH p.102】 語られたこと、伝達された内容は、顔と顔を向き合わせるというこのかかわり方を通してしか届かない。このかかわりにおいて、他者は認識 顔 顔 されるに先だって、まず対話者としてそこにいる。まなざしを見つめる。まなざしをみつめること、それは身を放棄せぬもの、身を委ねぬもの、 、、、 、 にもかかわらずこちらをめざすものを見つめることである。これが「顔」をみることなのである。 顔 【DL p.21】 ●「顔」とは「めざされているもの」でありかつ「こちらを見返すもの」である。「顔」は視覚的・観想的な能作の対象ではない。それは何よ りもまず聴覚的な経験、つまり「語りかけ、聞き取る」ことなのである。 顔は包摂されることを拒否することのうちに現前する。その意味で顔は理解不能、包摂不能である。顔は見られることも、触れられることも 顔 顔 ない。なぜなら視覚的あるいは触覚的感官を通じてでは、自我の同一性が他者性を包み込み、まさしく自我の同一性に包摂されてしまうからで ある。 【TI p.168】 5 思想・哲学研究会【レヴィナス】 (2011/8/27)
  • 6. ====== 「謎(エニグム) 」という概念について ====== ●別紙3参照(p.39) 参照 内田氏がレヴィナスを始めて読んだ際に抱いた感情。それはレヴィナスの言葉を用いて言えば「謎」 。 ●世の中には「難解だけれど、分からなくても別に困らない」種類の難解さと、「難解だけれど、早急に何とかしたい気がする」種類の難解さ がある。レヴィナスの難解さは後者である。(p.140) 、、 ○謎は「何を意味するのか分からないが、何かを意味していることだけは分かる」がゆえに、シニフィアンの終わりなき入れ替えを励起する「何 か」のことである。 (p.87) 「他者」がおのれの匿名性を維持しつつ、私の認知を呼び求めるこの仕方、了解や共犯性の目配せをきっぱりと退けて、おのれを検事するこ となしに顕示するこの仕方を、私たちは「現象」という慎みのない、誇らしげな顕現と対立するものとして、そのギリシャ語の語源に遡って、 「謎」 (エニグム)と呼ぼうと思う。【EDE p.209】 ====== 「他者」という概念について ====== ○独学者とは「他者」に双数的=想像的構えで立ち向かうもののこと。彼の目の前にいるのは、彼と同類等格の「他我」、彼自身の「鏡像」に 過ぎない。(p.95)(ここでの「想像」的とはラカンの想像界の想像) ○独学者は「他者とは何か?」を考究する設問形式でしか他者問題に接近しない。その設問の形式そのものが「既知への還元」を根元的趨勢と してすでに前提にしていることに独学者は気づいていない。 (p.96) ○そのつどすでに既知であるものを既知に繰り込むこと、それが西欧の思想における「知」の機能である(p.97)。独学者の例:眼前にあるテ クストを、そこから得られる学術情報をおのれの知的資産の目録に書き加えようとして読む者(p.99) ○レヴィナスが「〈他なる者〉の〈同一的なもの〉への還元」というのはこのような状況である。(p.98) 「他なるもの」の中立化―――主題あるいは対象となること、つまりは明るみの中に位置づけられるという仕方で顕現すること―――はまさ しく「他なるもの」の「同一的なもの」への還元に他ならない。【EDE p.14】 ○レヴィナスが告げているのは、テクストを読むテクストを読む行為そのものが「出来事」であるような読みを試みよということである。我々 は独学者であることを止めなければならない。それは端的には、今読みつつある等のテクストの書き手を「師としての他者」に擬し、師が蔵す る「謎」を「欲望する」という仕方で(…)踏み出すような読みを試みることである。 (p.99) 絶対的に他なるもの、それが「他者」である。それは自我と同じ度量衡をもっては計量することのできぬものである。私が「あなたは」あるい は「私たちは」と言うときの集団性は、「私」の複数形ではない。私、あなた、それはある共通概念の個体化したものではない。所有も、度量 衡の一致も、概念の一致も、私を他者に結びつけることはない。共通の祖国の不在、それが「他なるもの」を「異邦人」たらしめている。 【EDE p. 9】 ○内田氏のいう「象徴界」「想像界」の定義(p.102) ・ 象徴界…「私がその理解も共感も絶した他者、いかなる度量衡も共有されない他者に出会う境位」 想像界…「私が出会う人々が、私たちとともに一つの全体性を構成している、感情移入可能な他我であるような境位」 ○他我…私と同じ資格で、私とは「別の主観」として、同一の客観的世界を経験しているもののことである。 (p.102)私に代わって、対象の無 数の相を同時に見つめているこの「想像上の私」たち。「私が見ていないものを見て、それによって私の知覚の真正性を担保してくれる他者」 のこと。(p.102-104) わたしは他我を同時に、この世界に対する主観として経験する。すなわちわたしは他我を、この世界、つまりわたし自身が経験するのと同一 のこの世界を経験し、そのさいわたしをも、すなわち世界を経験しその世界の中において他我を経験するものとしてのわたしをも経験するもの として、経験する。 【XX p. 276】 6 思想・哲学研究会【レヴィナス】 (2011/8/27)
  • 7. ○主観性とはそのつどすでに間主観性である。間主観性が成り立つときには、他我が事実的に存在する必要さえない。EX.世界中の人間がペ ストで死滅して、私一人が取り残されても、それによってもなお「世界が存在する」という私の確信は揺らぐことはない。(p.104) ○他者…自我と間主観的な次元を共有することがない。他者は、端的に自我の共感も想像も絶しており、自我といかなる共通の次元も度量衡も 境界線も持たない。 (p.105) △EX.「暗闇からドカン」、麻雀のリーチ中に「ロイヤルストレートフラッシュ!」とあがる人(p.113) ====== 「顔」という概念について ====== ●レヴィナスの鍵概念として知られている多くの術語―――「他者」「顔」「イリヤ」「有責性」「デザンテレスマン」「第三者」「彼性」な 、 、 、 、 、 、 ど―――はいずれも一義的な定義をきっぱりと拒絶(p.46)(CF.わかろうと思わないラカン) ●レヴィナスについては決定的な読み方は存在しない。(p.47) ●「他者」という概念はきわめて難解であり、一義的定義になじまない。その理由の一つはそれが単に「難解な概念」というよりは、 「他者」 が、その都度「私」と同時に新たに生起するということにかかわる。「私」と「他者」はあらかじめ独立した二項として、自存的に対峙してい るのではなく、出来事のうちで同時的に生成する。(p.70-71) ●「他者」が私に相関する概念ならば、「私」がどのようなあり方をするかによって、「他者」のあり方も変わってくる。「私」あるいは主体に は二つの様態がある。(p.71) ①「全体性を志向する私」 :術語的には「自己」 (Soi)。自己はおのれを中心とした支配圏を拡大したいという志向と、絶えず運動し続けたいと いう志向という二つの矛盾した特性を併せ持つ。レヴィナスはこのような自己のあり方を「その遍歴の果てに必ずや故郷の島に戻るオデュッセ ウス」になぞらえる。オデュッセウスの冒険は、 「未知なもの」を絶えず「既知」に還元し、より包括的な全体性を構築するためにある。 「自己」 にとって「他なるもの」とは「自己ならざるもの」一般。それらは経験され、征服され、所有される。 「自己」は構造的に外部を持たない。 「他 なるもの」は「自己」とともにある全体性を構築する。 私とはいつも同一的である存在者のことではない。どのような経験を経由したあとでも、自己同定でき、おのれの自己同一性を再認できるよう な仕方で存在するような存在者のことをいうのである。【TI p.6】 ●自己同一性とは「他の何ものに根拠づけられるまでもなく、自己同定する【DL p.73】」能力のこと。 ●レヴィナスによれば「他の人間は私が殺したいと望む唯一の存在者【TI p.173】」 ②「無限を志向する私」:モデルは「アブラハム」に求められる。神はアブラハムに対して何の理由もなく、非文脈的に「あなたは、あなたの 生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい【『創世記』十二章一節】 」と告げる。アブラハムはその「選び」を受け容れ る。そして、故郷と父の家を棄て二度とたち帰らないという決断によって主体性を獲得する。それは「他者からの呼びかけ」に応えることで成 立する。この「主体」が出会うのは「他なるもの」ではなく、「絶対的に他なるもの」すなわち「他者」である。 殺人よりも強いこの無限、それが私たちにすでに顔として抵抗している。無限とは顔である。起源的表現である。 顔 顔 「汝、殺すなかれ」という 最初の言葉である。無限は殺害に対する無限の抵抗をもって権力を麻痺させる。その堅牢で乗り越え不能の抵抗は、他者の顔を通じて、その目 顔 の完全に無防備な裸形性を通じて、 「超越者」の絶対的開放性の裸形性を通じて、輝くのである。ここにあるのは強い抵抗力との関係ではない。 絶対的に「他なるもの」との関係である。【TI p.173】 7 思想・哲学研究会【レヴィナス】 (2011/8/27)
  • 8. ●私が「他者」を把持できるつもりでいる限り、私は「他者」を殺すことができる。しかし、私が自分の能力と権能に不安を覚えたときに、私 は不意に「他者」にその優位性を致命的な仕方で脅かされているおのれを見出す。 「他者」は私の全能性の翳りのうちにすまうのである。 (p.78) 他者は私に戦いを挑むことができる。しかし、他者を打ち砕こうとしている力に対して抵抗の力を対置させるのではない。その反応の予見不 能性を対置するのである。他者はより大きな力をもって私に対峙するのではない(比量可能な力であれば、他者は私とともにある全体の一部だ ということになってしまうからだ)。そうではなくて、この全体を他者が超越しているという事実そのものによって私に対峙するのである。 【TI p.173】引用P77 ●「他者」の抵抗力を構成するのは、その「予見不能性」である。 「予見」するのは私。私があることが「できない」ということが「他者」の 抵抗力の淵源なのである。 (p.77-78)(×他者が「私より強い」力を持つというのは度量衡を私と共有していて一つの全体性を分かつ) ●「顔」(visage)という鍵概念の最小限の定義、「顔」とは「他者」が私と対面する事況を意味する。(p.78) ●オデュッセウス的主体は、結局「他者」との対面状況から撤退してしまう。「他者」の「他者性」からは隔絶されている。(p.80) 主体とは、出来事に巻き込まれずにいる権能を留保しつつ、出来事とかかわりをもつ一つの仕方である。主体とは、出来事と関わりをもつ一 つの仕方である。主体とは無限に交代する能力、私たちの身に起こる出来事から逃れる能力のことである。(…)主体とはあらゆる対象に対し てすでに自由であること、後退、 「よそよそしさ」なのである。【EE p.144】 ●アブラハムはまた、主から自分の子イサクをモリヤの地で自分の子を全焼ののいけにえとして捧げるように非文脈的に言われる。主が告げた 内容に関しての問いに答えはない。それは「他者」と私を同時に包摂し、それぞれの行為の意味や適否を教えてくれるはずの客観的な判断枠組 み=全体性がここに欠落しているため。言葉の意味を彼はただ一人で、おのれの全責任において解釈するほかない。アブラハムは「誰によって も代替不能な有責性を引き受けるもの」として立ち上がる。このようにして自立したものを「主体」あるいは「成人」 (adulte)と名付ける。 「成 熟した人間」 、それがアブラハム的主体の別名である。(p.82-84) 秩序無き世界、すなわち善が勝利しえない世界における犠牲者の位置を受難と呼ぶ。この受難が、いかなるかたちであれ、救い主として顕現 することを拒み、地上的不正の責任を一身に引き受けることのできる人間の完全なる成熟をこそ要求数神を開示するのである。(…)不在の神 になお信を置きうる人間を成熟した人間と呼ぶ。それはおのれの弱さを計量できるもののことである。【EL p.205】 ●「神無き世界にあって、なお善く行動することができると信じるもの」 、それが真の意味での主体である。(p.84) 参考書籍> ====== <参考書籍> ====== ●『レヴィナスと愛の現象学』(せりか書房)、2001 年、内田樹 ○『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』(海鳥社)、2004 年、内田樹 ▲『現象学は〈思考の原理〉である』(ちくま新書)、2001 年、竹田青嗣 △『哲学個人授業』 (ちくま文庫) 、2011 年、鷲田清一 永江朗 ====== <レヴィナス関連書籍> ====== DL-『困難な自由』、エマニュエル・レヴィナス、内田樹訳、国文者、1985 TI-『全体性と無限』エマニュエル・レヴィナス、合田正人訳、国文社、1989 AV-『聖句の彼方』エマニュエル・レヴィナス、合田正人訳、法政大学出版局、1996 QLT-『タルムード四講話』エマニュエル・レヴィナス p.13、内田樹訳、国文社、1987 EL-『暴力と聖性』エマニュエル・レヴィナス&フランソワ・ポワリエ、内田樹訳、国文社、1991 EDE-『フッサールとハイデガー』 (抄訳)エマニュエル・レヴィナス、丸山静訳、せりか書房、1977/『実存の発見、佐藤心理人、小川昌宏、三 谷嗣、河合孝昭訳、法政大学出版局、1996 EE-『実存から実存者へ』エマニュエル・レヴィナス、西谷修訳、朝日出版社、1987/講談社学術文庫、1996 PH-『フッサール現象学の直観理論』、エマニュエル・レヴィナス、佐藤真理人訳、法政大学出版局、1991 XX-『デカルト的省察』 「世界の名著 51」エドムント・フッサール、船橋弘訳、中央公論者社 8 思想・哲学研究会【レヴィナス】 (2011/8/27)