1. 「歿後100年 Henry James『芸術家もの』における
”Romantic”についての考察」
100 Years After, The Summary of A Study of
“Romantic” in Henry James’ Artists’ Subject Matters
This is a study of “Romantic” which is expressed in Henry James’(1843-1916) short stories which
discuss about the subject matter of artists.
James revised his major novels then re-published these volumes in his last years and in them he wrote
a new preface on each story. In these prefaces, he repeatedly mentioned his idea about “romantic” and his
romantic was compared with his reality. At the beginning of my study, the following three questions came up to
me as a basis for my theory. 1. Were his romantic things expressed especially in his short stories about artists’
subjects rather than his other subject matters? 2. Did artists have some special thoughts rather than ordinary
people? 3. Was a romantic related to art somehow?
James actually practiced and loved art, and he was called an artist of language. He had been born a
natural artist; therefore, I thought that he might install special techniques in his short stories. Many of his stories
were based on true anecdotes which his friends told him, and those became his germ, then he gave full play to
his rich imagination by seed. It became his voice inside which hurried him to make it a drama. His voice inside;
it should be a motive power of artist’s creativeness.
By his picturesque technique of writing, I thought that he installed not only a big panorama of painting
all over the story, but also only one small painting as a beautiful moment. By installing one small painting-like
scene, how his romantic world and realistic society were blended or compared?
I would like to define romantic as follows. A romantic thing may be condensed into a small canvas,
then it may be art itself. Contrary, a reality is spread widely around the small canvas, then it’s a real society
around our ordinary life. A romantic thing is smaller than a reality in size; however, it includes much deeper and
richer experience than a reality in spiritual meaning. When human being faced with difficulty, their mind may be
transformed from reality into a romantic though, and the process may be a form of self-justification. It may be
the way to pass though without fail in his lifetime to be grown up as an artist and also as an human. The above
definition of a romantic will be testify by explaining the following issues. 1. Common difficulty for being artists.
2. The romantic poetry’s memory. 3. An anonymous narrator named “I”. 4. Two pieces of contrasting painting.
5. An irony of reversal.
The study is a result of examining carefully “Stories of Writers and Artists” in which James’ artist
subject matters were included and Prefaces of his New York Edition and “The Notebooks of Henry James”.
序論
この研究論文は、歿後100年のヘンリー・ジェイ
ムズ(James,Henry, 1843-1916)の描きあげる「芸術
家もの」に表れるのロマンティックなものについて
の一考察である。
ジェイムズは、晩年、自身の主な作品に訂正加筆
し、序文を新たに書き加えて、ニューヨーク版とし
て再出版したのだが、ニューヨーク版序文集1
(以
下、序文集)には繰り返し、ジェイムズのロマン
ティックについての考えが述べられている。また、
このロマンティックなものはリアリスティックなも
のと対比されている。この考察にあたり、以下3つ
の疑問がわいた。1.ロマンティックなものは、特
に、「芸術家もの」に取り入れられているのではな
いか。2.芸術家には何か特別な思考回路があるの
ではないだろうか。3.このロマンティックなもの
は、芸術に密接な関係があるのではないだろうか。
序文集によると、ジェイムズが知り合いから聞い
た、ちょっとしたロマンティックな逸話が、ジェイ
ムズに対して、「ドラマにしろ、ドラマにしろ、ド
ラマにしろ!」2
と呼びかけるそうである。ドラマに
しろ、という内なる声にせかされて筆を執る。自己
の内部からの声、これこそ芸術家の制作活動への原
動力ではないだろうか。ジェイムズは一日たりとも
ペンを握らなかった日はなかったという。また、戯
曲が当たらず聴衆から罵声を浴びせられても、小説
が売れなくても書くことを止めなかった。この弛ま
ない努力こそ芸術家の基本精神ではないだろうか。
0
7. ものは、ジェイムズの代表的な「芸術家もの」を
F.O.マシーセン(Matthiessen, F.O.)が編纂した”
Stories of Writers and Artists, (1944)” に見られ、
全てこの考察の参考とした。ジェイムズは確かに
「芸術家もの」以外の作品においても、ロマン
ティックなものとリアリスティックなものの両方を
表現しているが、結局は、想像力や精神の崇高さと
いった意味合いでのロマンティックなものが、社交
界、契約、お金などの意味合いでのリアリスティッ
クなものの犠牲になり、現実世界に立ち戻っていか
ざるをえないリアリズムの立場をとり、ロマン
ティックなものはあくまでも主人公の中の精神性と
して残るのみであることが多い。それに対して、
ジェイムズの「芸術家もの」では、芸術家であるが
ゆえの葛藤をテーマに、クライマックスでは、リア
リスティックなものから完全に開放された無限の状
況を創造する。この芸術家の葛藤については、第4
章で詳しく述べる。
中でもこの考察で、代表的に取り上げたい”The
Real Thing”の粗筋は、以下のようである。小説は、
本来は肖像画家であるが、生計をたてるために挿絵
画家をしている画家のアトリエに、一組の上品な中
年夫婦が訪ねてくるところからはじまる。そのモ
ナーク夫妻(Major Monarch & Mrs. Monarch)は、
かつては身分もお金もあり優雅な生活を送っていた
が、破産寸前の状態になり、この画家ならば彼らを
挿絵のモデルに雇ってくれるのではと期待した。画
家はある小説の挿絵の仕事を依頼されており、彼ら
をモデルとして使ってみることにする。画家は、既
にミス・チャーム(Miss Churm) という若い女性
をモデルとして雇っており、彼女は身分の卑しいた
だの平凡な下町娘であるが、表現力に富み、プロの
モデルであった。モナーク夫妻は、型にはまったモ
デルであり、それが表現不足ととられ、画家の考え
るところの「アマチュアの欠点」を露呈する形と
なった。そこに更に、モデル兼召使いにしてほしい
という青年、オロンテ(Oronte)が登場し、彼もまた
そのモデルとしての天才ぶりを発揮させ、モナーク
夫妻の商売敵となる。美術批評家である友人、ホー
リー(Hawley) が画家の失敗を指摘した後、画家は、
挿絵のモデルにオロンテとミス・チャームを使用す
ることに決めた。それを知ると、モナーク夫妻は、
何とかアトリエでモデル以外の仕事を得ようと、
じょじょに召使のように振舞いだした。結局、モ
ナーク夫妻は、ほんものの貴族なのに偽者よりも貴
重になりえないという皮肉な運命を受け入れざるを
えなかったのだ。その後、モナーク夫妻に相当なお
金を渡すと、彼らはアトリエに姿を見せなくなっ
た。
この「召使いとしての行為」のひとつである、モ
ナーク夫人がミス・チャームの髪に櫛を入れる、”
The most heroic personal service” 21
、「モナーク
夫人の美しい行為」は、とてもロマンティックなも
のである。なぜかというと、その一点の行為によ
り、全ての状況が180度転換してしまったからであ
る。金銭のために情けない行為に及んでいたモナー
ク夫人は画家の心象の転換によって、悪から善、ま
たは醜から美へと昇華したし、モデルであるミス・
チャームの美しさは倍加されたのである。
ロマンティックなものは、我々の思考や美しい迂
回路を通る。つまり想像力を伴い、読者に自由な解
釈の余地を与える。それにより、この”The most
heroic personal service” をめぐっては解釈が二つ
に分かれると考える。
But she quieted me with a glance I shall
never forget--I confess I should like to have
been able to paint that and went for a
moment to my model. She spoke to her
softly, laying a hand on her shoulder and
bending over her; and as the girl,
understanding, gratefully assented, she
disposed her rough curls, with a few quick
passes, in such a way as to make Miss
Churm's head twice as charming. It was
one of the most heroic personal services
I've ever seen rendered. 22
6
9. answer, "and Florence seems to me a very
easy Siberia. But do you know my own
thought? Nothing is so idle as to talk about our
want of a nursing air, of a kindly soil, of
opportunity, of inspiration, of the things that
help. The only thing that helps is to do
something fine. There's no law in our glorious
Constitution against that. Invent, create,
achieve. No matter if you've to study fifty times
as much as one of these. What else are you an
artist for? Be you our Moses," 25
2つ目は、芸術の商業化、もしくは世俗化と芸術
の追求のための貧困の問題である。例えば、”The
Madonna of the Future” では、セオボールドが古典
的なイタリア・ルネサンス期の芸術を追求し、目標
とする芸術性の高さ故、貧困の中、一枚の絵も残せ
ず死んだのに対し、セラフィーナ嬢の愛人は、人形
細工を大量に売りさばいて成功をおさめた。また、”
The Real Thing”では、画家が本来は、肖像画家とし
て名声を得たかったのだが、日々の生活費のため、
仕方なく挿絵画家としてペン画を書いていたことも
世俗化といえよう。 ”The Next Time”では、リン
バート(Ralph Limbert)が、愛するモード(Moud)
と結婚するために、不本意にも作家ではなく、編集
者としての会社勤めの道を選び、本来の芸術性はさ
ておき、世俗うけする記事を書こうと努力をする。
芸術追求のためだからといって餓えるわけにはいか
ないのだ。
3つ目は、芸術家の絶え間ない努力の問題であ
る。”The Next Time “では、リンバートの書く記事
が大衆うけせず、会社を解雇になり、何度仕事から
干される状態になっても、この次こそは成功するぞ
という希望を捨てず、その死の間際までペンを離さ
なかった。リンバートとは対照的に、”The
Madonna of the Future” では、画家を志しながらも
10年間全く絵筆を握らなかった堕落したセオボール
ドが描かれている。リンバートもセオボールドも結
果的に成功しない。また、”Broken Wings(1900)”
は、久しぶりに逢った以前の恋人同士が、互いに芸
術家として不遇の時代を過ごしていることを思い
切って打ち明けあうと、そこから芸術を諦めて恋愛
が始まるのではなく、お互いに次の制作にすぐさま
とりかかるという話である。芸術家の使命は、結果
を考慮せず、一日も休むことなく努力し続けること
なのであるが、それには血のにじむ様な努力と強い
精神力が必要であろう。
4つ目は、芸術家の想像力と実践力または才能の
有無の問題である。”The Real Thing”に登場する若
き日の画家は、想像力はあると自負していたが実践
力がまだ伴わなかったせいで、モナーク夫人を前に
して戸惑いが生じた。”The Madonna of the Future”
のセオボールドは、有り余るほどの想像力がある
が、それを画布に残す実践力が伴わず、苦しんでい
た。結局、芸術は才能ある者からしか生まれないの
だ。芸術の天才について、アリストテレスは、哲学
であれ、政治であれ、詩や芸術であれ、これらの領
域において傑出した人間はみな憂鬱質であるとし、
プラトンは、病気によって惹き起こされる普通の狂
気と神的狂気を区別し、神的狂気の中に詩的狂気、
すなわち芸術的狂気があるとしている。これをプラ
トンの狂気論といい、アリストテレスの憂鬱質論と
結びつき、憂鬱質-天才-狂気26
という発想が生ま
れた。芸術的天才というものは本来、憂鬱質の人
間、神的狂気の人間でなければなれないものであ
り、ロマンティシズム文学に登場する芸術家たちも
それに該当するのであろう。
創造とはもともと破壊性を伴う作業である。
ということは、ふつうの人間は創造なくして生
きていけるということだ。所与のもので、人間
は十分満足できる。(中略)ところが、このあ
りきたりの秩序に耐ええない者だけが創造の
デーモンにとらわれて世界から脱出しようとす
る。別の次元にむかって。27
これを芸術家特有の異常な思考回路が生まれる所
以とする。
8
10. 下記は、”The Real Thing”からの引用である。
Her figure had no variety of expression --she
herself had no sense of variety. You may say
that this was my business and was only a
question of placing her. Yet I placed her in
every conceivable position and she managed to
obliterate their differences. She was always a
lady certainly, and into the bargain was always
the same lady. She was the real thing, but
always the same thing. There were moments
when I rather writhed under the serenity of her
confidence that she wasthe real thing. 28
画家の苛立ちを細かく考察してみることによっ
て、前述した芸術家の諸問題がいかにロマンティッ
クであるかが明らかにされる。画家は一応、自分の
力不足を戒めてはいるのが第一段階の苛立ちであ
る。しかし、本当はモデルがほんものの貴族だから
型にはまりすぎているし、モデルとしてアマチュア
だから悪いのだという、アマチュア嫌悪の気持ちが
沸き起こるのが第二段階の苛立ちである。批評家の
友人、ホーリーに画家生命の終わりを警告されたの
が、第三段階の画家の苛立ちである。また、ミス・
チャームとオロンテを使って、『ラトランド・ラム
ゼイ』を仕上げると決めた段階で、まだモナーク夫
妻との縁が切れていないことに気づくのが、第四段
階の画家の苛立ちである。貴族である彼らがモデル
としてはアトリエに居られないと知ると、急に召使
いのように振る舞いだしたのを見て描く意欲が完全
に削がれてしまったのが、第五段階の画家の苛立ち
である。最終段階の画家の苛立ちは、モナーク夫妻
が出て行った後の後味の悪い感触によるものであっ
た。このように、次第に募っていく画家の苛立ちの
様は、自分の画家としての才能を疑うという自身へ
の苛立ちから、アマチュア嫌悪という立場をとらざ
るを得ないという芸術に対する苛立ち、干渉してく
るホーリーやモナーク夫妻への苛立ち、そしてまた
自己への苛立ちというように心象が変化していく。
モナーク夫妻への苛立ちの認知は、画家自身のエゴ
イズム認知へとつながっていく。自分さえ良けれ
ば、自分の名誉さえ守られれば、他人であるモナー
ク夫妻などどうなってもかまわないのである。しか
も、次第に自分の立場がモナーク夫妻のそれと重
なっていくのである。画家は、モナーク夫妻が自己
の姿の投影であることを認識せざるをえなかった。
モナーク夫妻を生かせば、自分が死ぬのである。
画家は、自分の画家としての才能の欠如を認めた
くないばかりか、自分の人間としての欠陥さえ認め
たくはない。しかしながら、苛立ちの段階を通し
て、じょじょに自己の弱さに対面せざるを得ない状
態にあった。その弱さとは、芸術追求の精神に反対
して働く金銭重視、肖像画家としてではなく、挿絵
画家として生計を立てなければならないという信念
の断念、時間を忘れ没頭できるのが芸術であるはず
なのに、締切の期日に追われること、想像力、才能
の限界、芸術は、結局は他者との競争であるという
こと、芸術家であることを重視したならば、人間と
しての精神を犠牲としなければならないことであ
る。ここに、芸術家特有の、現実社会対する葛藤、
自己に対する葛藤、芸術に対する葛藤が見られる。
これらが、前述した、「芸術-憂鬱質-天才-狂
気」という連結した芸術家特有の思考回路だとし、
その特異さが異常であればあるほど、精神的な危険
度が高まり、芸術家の諸問題とロマンティックなも
のの関係が明らかになるのではないか。
Ⅴ ロマン派の詩的記憶
画家は、この痛手に対して代償を払ってもかまわ
ないほどの価値を、このほんものとの思い出に見出
したと述べている。ほんものの貴婦人との思い出
が、画家の脳裏にとてもロマンティックに思い起こ
されることが、画家のその後の人生にとって、大き
な価値を与えたことがわかる。そのロマンティック
なものがどのように画家のその後の人生にかかわり
9
11. を持ったかについて考察することにより、ロマン
ティックの精神性の崇高さについて証明したい。
I obtained the remaining books, but my friend
Hawley repeats that Major and Mrs. Monarch
did me a permanent harm, got me into false
ways. If it be true I'm content to have paid the
price--for the memory. 29
ここにこのジェイムズ小説のロマン派の詩的記憶
の問題がある。”The Real Thing”, “Madonna of
The Future”, “The Next Time”などの「芸術家もの」
の短編小説には、記憶の問題が提示されている。そ
れぞれの作品において、語り手は、思い出に残るあ
る人物について、現在から過去にさかのぼって、記
憶を語っているという共通点がある。心理的、時間
的、空間的距離をおくことによって、現在の自分の
立場とその当時の自分の立場の隔たりに感慨深いも
のを覚え、また二度と会うことのないあの人物が過
去に自分に与えた衝撃が、現在の自分にとっては崇
高な記憶としてのみ、よみがえってくるのである。
語り手である画家は、この物語を語った時点では、
もう青年ではなく、肖像画家として名声を得るのを
あきらめ、挿絵画家としてある程度安定した地位を
築いていたことだろう。あの忌々しい腹立たしい出
来事は画家にとって生きるか死ぬかの切実な問題で
あり、自分のエゴイズムにも気づかされたという非
常にリアリスティックなものだったが、あの出来事
がもしなかったら、画家はどうなっていたのだろう
か。画家としての道を誤った方向に向かわせようと
したほんものの貴婦人の幻想に惑わされて、自分を
見失うところであった画家が、芸術家としての、人
間としての未熟さを、若いころに体験しなければ、
画家の芸術性と人間性は高められなかったはずであ
る。
語り手は、過去のこの出来事がリアリスティック
に忌々しいものであればあるほど、現時点において
は、ロマンティックで崇高なものに昇華させてい
る。モナーク夫人がミス・チャームの髪にくしを入
れた瞬間が真の美として凍結され、一幅の絵画とな
り、永遠の喜びに昇華したのも、語り手である画家
が現在から距離をおいて過去を見つめなおしている
からである。過去のエゴイスティックな行為に負い
目を持った語り手にとって、自分の過去の過ちから
逃れられる唯一の方法が、過去を崇高な思い出とし
て封印してしまうことだったのである。
いったん距離をおいて記憶として描く手法は、ノ
ベルでありながら、ロマンスの装用をもたせ、また
ロマン派の詩としての装用を持たせる。イギリス・
ロマン派の詩人であるワズワース(Wordsworth,
William, 1770-1850)はルーシー詩篇のある一篇の
最終行で、”The memory of what has been, And
never more will be.” 30
と読み、ルーシーをメモリー
の中で今でも生き続ける存在とし、過去を詩の中で
凍結させた。31
以下は、ワズワースのルーシー詩
篇、 ”Three years she grew” の引用である。
(中略)
Thus Nature spake – The work was done –
How soon my Lucy’s race was run!
She died, and left to me
This heath, this calm, and quiet scene;
The memory of what has been,
And never more will be.
(Three years she grew) 32
ワズワースの詩の作成過程では、現実の体験に基
づいてすぐに詩形形象を結ぶのでなく、回想という
心理過程を経てはじめて詩作の段階となる。この回
想の段階で心理的、時間的、空間的距離をおいて過
去を見つめなおす行為により、想像力が高まり、詩
の崇高さが倍加するのである。
ジェイムズの芸術家ものについても同じことが言
える。心理的、時間的、空間的距離をおいたもの
は、どんなにその当時にリアリスティックな出来事
であっても、想像力を伴ってロマンティックなもの
に昇華する。ワズワースと深い交流があった詩人、
コールリッジは、想像力を以下のように定義してい
る。
10
14. トの引用からもわかる。
Hawley had made their acquaintance--he had
met them at my fireside--and thought them a
ridiculous pair. Learning that he (Hawley) was a
painter they (The Monarchs)tried to approach
him, to show him too that they were the real
thing; but he looked at them, across the big
room, as if they were miles away: they were a
compendium of everything he most objected to
in the social system of his country. Such people
as that, all convention and patent-leather, with
ejaculations that stopped conversation, had no
business in a studio. A studio was a place to
learn to see, and how could you see through a
pair of feather-beds?35
モナーク夫妻は、ホーリーが芸術関係の仕事をし
ているとわかると彼に近づく。アトリエは観察眼を
養う場所なのに、モナーク夫妻のように羽根布団に
包まっていて何がわかるというのだとホーリーは警
告を発する。画家は、芸術には無用なモナーク夫妻
をアトリエに受け入れ続け、芸術性追求よりも世俗
に迎合するようになっていた。
「モナーク夫人の美しい行為」などはじめから無
かったのである。また、仮にあったとしても当時の
画家には気がつかなかっただろう。負い目を受け入
れ、消化する精神性を持つまでに成長したというこ
とが、ロマンティックで深い経験である。実際には
無かった場面が絵画的一瞬を捉え、芸術家の脳裏に
焼きつく。これが芸術家の想像力である。リアリス
ティックな状況からロマンティックな状況への移
行、つまり不完全な状況を自己正当化することは、
実際には目に見えないものを想像力によって視覚化
することでもある。それはまさに一幅の絵画を読者
の頭の中に描くというジェイムズの「芸術」なので
ある。
Ⅶ 対照的な2枚の絵画
ジェイムズの「芸術家もの」は、何故、一幅の絵
画を見ているように、一つのまとまりを見せ、読者
の目にロマンティックに映るのだろうか。
一つの物語は一つの物語であり、一枚の絵は一
枚の絵である、そして私は一つの中に二つの物
語、二枚の絵がみられることがぞっとするほど
嫌であった。(中略)丁度車軸を失った車輪が
車を動かすのに何の役にも立たないように、も
早大事な意図を表現するのに役立たなくなった
ということである。(中略)私がたまたま一枚
の絵の中に二枚の絵を見たことは、明らかに事
実であった。(中略)だから私の仕事は、完全
な絵画的融合を、つまり、最初の一つの構想の
間に、たとえそれらが全く異なった星の下に生
まれたとしても、お互いを犯さない何か共通の
関心を「求める」ことであった。36
ジェイムズは主題と構成にこだわった作家であ
る。他人から聞いたちょっとしたロマンティックな
話が萌芽となり、主題を創造するが、その主題は必
ずひとつのまとまりをもったものでなければならな
い。複数の主要な登場人物を物語に配置したからと
いって、それぞれの人生が読者の目に際立つように
主題を創造するのではない。
ジェイムズは、必ず一つの物語にこの瞬間を凍結
させたかったという一幅の絵画を持ち込む。これも
その一つの主題にそった形でひとつだけ創造され
る。ジェイムズは何よりも「一つのまとまり」とい
うものに関心が高いと思われる。その「一つのまと
まり」が走る二輪馬車の車輪であり、回転の中心で
ある車軸は前方に移動してはいるが、位置は固定し
ており、決して動かない。車輪がドラマであり、車
軸が丁度、物語の主題になっており、車軸を失うこ
とはドラマの主題を失うことである。序文にあるよ
うに、ひとつの物語の中に、二つの物語が表れるの
を嫌い、一つの絵に二つの絵が表れるのを避けた。
しかしながら、ジェイムズがティントレット
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